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上昇の道

ベンジャミン・クレームの師である覚者は、シェア・インターナショナル誌の創刊以来、毎月記事を提供してくださった。それは、書かれた時のみならず、世界の状況に応じて適切と思われるときにはいつでも掲載してよいようにである。実際これらの記事の多くは、それらが最初に掲載された時よりも今の方がより関連性があるように思われる。以下の最初の記事は、2014年2月に最初に掲載されたが、ますます多くの人々が神性の新しい相に気づきつつあり、その結果、他者とのより調和した関係を持つようになってきている。
一方、「ばくち的ジェスチャー」の方は、それとは対照的に分裂した世界を描写しており、紛争を解決するために常識を持つことを訴えている。そのメッセージは今、より時機を得て必要なものに思われるので再掲載する。
(これが最初に掲載されたのは2014年5月である)

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

一人ひとりの人間の裡に神が宿る──いまだ可能性としてではあるが、それは永久不変である。われわれが人生と呼ぶ体験を通しながら旅路を進み、ついに、あの「神」との一体に向かう一歩であったことを知り、「神」の事実を認識し、それは「超魂(the Soul)」であり、われわれの真我( higher Self )であることを認識する。
今までは、「超魂」についてのわれわれの知識は宗教の関連からきていた。そのため、「超魂」は人間から遠い存在であり、認識され、遠くから崇拝されるべき何かであるという印象を残した。しかしながら、人が進化するにつれて、「超魂」は自分自身であることを、自分の、より高位でより純粋な部分であるが、にもかかわらず、自分自身であることを理解するようになる。かようにして、人は進化し、自分の真の本質と目的についての知識を深めていく。
今日、非常に多くの人間がそのような道程を歩むことについて、意識的に認識している。彼らにとって人生の意味は深まり、より優れた知識と体験を探究する。かくして、やがて彼らは瞑想に向かい、その実践を通して、より大きな発見が彼らのものとなる。一歩一歩、彼らは自分たちが「超魂」であることを確信し、それは何か遠く離れたアイディアではなく、まさに彼ら自身であることを知る。徐々に、彼らの人生のテンポ(速度)は変化し、より深い意味と目的が彼らの行うすべてを強化する。かようにして、人間は超魂の神性と知恵をますます反映させながら、完全への道程を前進する。
すべての者がそれぞれのやり方でそのような旅路を歩む──ある者は素早く、熱心に、ある者はゆっくりと、その道について不確かな思いで歩む。しかし、やがて、すべてがその旅の進歩を測る様々な門をくぐるのである。今日、この旅路は、そのような道が存在することを知らないが、にもかかわらず彼らの「魂」の呼びかけに応える何百万の人々によって辿られており、門をくぐる。彼らは、今のこの時の必要を感知し、それぞれの必要を満たすことを求め、そのようにして、彼らの役割を果たす。
知ろうが知るまいが、彼らは彼らの魂を通してマイトレーヤからの呼びかけに応えて、乱闘の中に入り、彼らの熱意と勇気でこの世界を満たす。彼らは努力が無駄ではなかったことを発見するだろう。

ばくち的ジェスチャー

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

人々が正しい関係に向けて断固たるステップを取るときはいつも、対決に向けて同様の断固たるステップを取る人々が必ずいる。大勢の人間がより大きな自由と正義のために働き、そして死んでさえいる──と同時に、他の勢力は減少する彼らの力(パワー)を強固にするための冷笑的な試みで平和を脅かす。その間、全体としての人類は、放棄され克服されるべき昔の古い憎悪の思考の再発を目撃して、恐れおののきながら見守る。
あなた方の兄たちであるわたしたちもまた、この危険なやり方を注意深く見守るが、恐れてはいない。良識は、得るものと失うものとを大体、はかりにかけてみるとき、少なくとも不安定な平和を受け入れることを強いることを、わたしたちは知っている。
これからは、このシナリオが世界中で繰り返されるだろう。超大国は彼らの力を維持しようと、あるいは増強することさえ試みるだろう、しかしながら、現状維持を損なわないように慎重にやらなければならないことを知っている。一体いつまで、諸国家はこの無益なゲームをすることができるのか。唯一の分別あるコースは、すべての者のための平和と繁栄のために、
共に働くことである。この方法によってのみ、諸国は国民に、平和の歓び、正義(公正)の繁栄、そして分かち合いの至福を得るための用意をさせることができるのである。

弟子道——選集

The Path of Discipleship ── a compilation

「弟子道」というテーマに関する引用文の選集を掲載する。これはマイトレーヤのメッセージ(『いのちの水を運ぶ者』と『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師の言葉(『覚者は語る』 ㈵ と ㈼ )、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。

わたしの覚者たちはいのちの規律を、あなたがたに教えるであろう。わたし自身は人類を招くあのより高度の光を、あなたがたに見せるであろう。わたしの教えは二重である。一つは、人間の物質面にかかわることであり、人生の必要事項である。もう一つは、我々が神と呼ぶあの聖なる存在と人間との関係についてである。わたしの言語の中では、これらは同じものである。なぜなら人間同士が正しい関係を築いてこそ、神との正しい関係を築くことができるのであるから。わたしの計画は、これをあなたがたに示し、人が己自身の裡に、分かち合い、愛し、信頼する能力を見いだす時、その瞬間から神へ向かう登り道が始まることを教えることである。(『いのちの水を運ぶ者」メッセージ第29信より)

今日、進化の道をより速く進みたい者のために、これまでかつてなかったほどに、奉仕して成長するユニークな機会が提供されている。変換の仕事を引き受け、大計画と世界に仕えることによって、彼らは新しい霊的進歩の基準を設定し、そして全体としての人類のためにそのプロセスを速めることができる。これが今の時のチャレンジ(挑戦)である。今日の弟子たちは、後に続く者すべてのために進化の過程を速める機会を持つ。このようにして最も強力なかたちでロゴスの大計画に仕えるのである。奉仕して成長しなさい。奉仕して成長しなさい。これが進化の旅路における前進のカギである。(『覚者は語る 1』─新しい時代の夜明け─より)

[恐怖心なしに子供を育てることについて]……自分自身であるということは、自分自身の存在感(実在)を経験することです。もしあなたがそのような空間を与えてあげれば、子供は自分自身を真我として絶えず認識しながら、その経験の中で成長するでしょう。もちろん、それは非常に難しいことです。なぜなら、私たちはみな条件づけられているからです。両親によって条件づけられ、私たちの両親はまた彼らの両親によって条件づけられてきました。何百万年もそのように続いてきました。自分自身の恐怖心を子供に投射しないのは非常に難しいのです。近道はありません。私がこうしなさいと言えるような容易なものではありません。一つには常識です。絶えず監視することが必要です。もしあなたが自分の注目を真我に集中させることができれば、すなわち実際にあなた自身の同一化(アイデンティフィケーション)を真我に移転することができれば、そうすれば当然、あなたのグラマーや恐怖心を子供に投射することはないでしょう。子供を害しないためにはあなたが変わらなければなりません。難しいです。難しくなければ、私たちはここにいないでしょう。言うは易いが、行うことは非常に難しいのです。非常な修練が必要です。しかし、だからこそあなたは弟子(ディサイプル disciple)と呼ばれるのです。弟子(ディサイプル)とは人生の修練(ディシプリン discipline)を受け入れる者のことです。自己(真我)認識につながる修練を築き上げなければなりません。方法は自分自身の欲望に対して死ぬことです。ほとんどの人にとって、それを達成する経路は自己犠牲を通してです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

弟子とは進化の旅路を意識的に辿っている人のことを指します。人類すべてが進化しているということは言うまでもありません。初期の動物人間から今日の我々の段階まで進化したのです。数え切れない永劫の間、多かれ少なかれ無意識のうちに、その過程は進行してきました。個々の魂は、進化そのものの磁力によって進化の中に押し流されて、繰り返し、繰り返し転生してきました。他方、弟子は、非常に特定の目標につながるこの過程の中で非常に意識的な役割を受け持ちます。人類大衆は終点が、目標が──少なくともこの惑星に関連する限り──あるということすら実際に知りません。弟子とは、目標があることを知り、非常に意識的方法で自分の進化をさらに進めようと努力する者であります。その目標とは、もちろん完全の域に達すること、つまりこの惑星に転生してくる必要性からの解放です。弟子はその目標に到達するために、喜んで、意識的に必要な規律に服従します──弟子(Disciple)とは規律のとれた(Discip-lined)者という意味なのですから。(ベンジャミン・クレーム『伝導瞑想──21世紀のヨガ』)

完全に到達する道はたくさんある。しかし単純な道が最良である。わたしの道が、愛の道が、人間を最も速やかに本源なる神に至らしめる。もしあなたがこれを見ることができれば、間違うことのない、真なる道を進むだろう。これはすべての人間にとってそうである。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第58信より)

人間が彼らの世界をつくり出し、正しい人間関係を確立するために取るステップの一つ一つが、彼らを完成に導く旅路における前進のステップであることを、マイトレーヤは人間に示されるだろう。そして弟子たちにとっての内的なステップは、いまだイニシエーションの過程に従事していない人間の外的なステップによって調和されなければならないことを、すべてが相互に関連しており、統合された全体であることを、示されるだろう。一歩一歩、人は各々のペースで自分の行路を歩む。一歩一歩、人は無知から知識へ、不正義から正義へ、隷属から自由へと動く。(『覚者は語る 2』─ 一歩一歩─より)

わたしの計画は、あなたがたの真なる姿をあなたがたの裡に気づかせ、あなたがたが神御自身そのものから出でた者であり、その聖なる本源へ戻らねばならないことを示すことである。わたしの任務は、その行程を、正当なる嗣業に辿りつくためのあの長い道程を、楽にしてあげることである。わたしたちがお互いに兄弟として出会うときに、我が友よ、あなたがたはわたしの中に、その道をよく知っている案内人を、教師を、見るであろう。なぜならわたし自身ずっと昔にその同じ道程を辿り、その道の道標をよく知っている者である。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第66信より)

すでに授けられた教えを使いなさい、それを実践しなさい、そうすれば自分が期待した最高の速度よりも速い速度で向上するでしょう。あなたがそうするとき、教えをそのように実践するとき、それはあなた自身のものになり、もはや抽象的な教えではなくなります。もはやアカデミックな主題ではなくなります。それはあなたのものになります。あなたが道になります。あなたが弟子道の必要条件を実践していくにつれて、道はあなたの前に開けていきます。道はあっちにあるのでもこっちにあるのでもなく、またあの本やあのテクニックの中にあるのでもありません。それはあなたの意識の中から開かれてくるものです。すべての者にとって道はそれぞれにユニークです。もちろん、不変の基本的な根本条件があり、それは神性の特性そのものです。ディサイプルの道はイニシエーションにつながり、イニシエーションの道は覚者道につながり、それは神への道であることを覚えておきなさい。己の神性が花開いていく道であります。このことを忘れるべきではありません。ほとんどの人がそのことを忘れがちです。それが彼らの人生にとっての枝葉になっております。ということは、自分の本質が自分の人生にとって枝葉であると言うようなものです。私のいのちの本質は、私にとって枝葉であると言うようなものです。しかし、私が私のいのちなのです。そうでなければ私は無です。あなた自身のいのちと神性の表現に向かうあの動きが、どうして日常生活の付随的なものであり得ましょうか。あなたはそれを自分の天職にしなければなりません。もしあなたがディサイプル(ハイアラキーの弟子)になりたければ、感激で燃えなければなりません。歓喜の状態で、固い決意で、イニシエーションの門につながる道をたどっているという高い期待の状態で進まなければなりません。そうでなければ、あなたの行動は非常に生ぬるくて、今のこの転生で達成できるはずの段階にまでたどり着くのに、次の50回の転生が必要かもしれません。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

神に到達する道はたくさんある。しかし、もっとも速く確実なのは奉仕の道である。これほど神の特性を十分に宿す道は他にない。この道の上にあなたの位置を占め、あなたの魂の指図を遂行しなさい。あなたの心(ハート)の命令に従い、世界の必要に目覚めなさい。奉仕の道に入り、大計画の中におけるあなたの位置を受け入れなさい。そして神への道にしっかりと足を踏みしめなさい。(『覚者は語る 1』─勝利は保証されている─より)

あなたがたに新しい生き方を見せてあげたい、人間に生来そなわる同胞愛に基づく生き方を、愛し、分かち合う能力と、人間の本質的な神性に基づいた生き方を。聖なる人間になる過程は、単純で自然なものであり、すべての人間に開かれている。それは、あなたがたの裡にはじめから宿るあの神を解き放つ過程である。わたしは約束しよう──もしあなたがたがわたしに従いて新しい時代に前進するならば、あなたがたの裡に宿る聖なる本質を解き放ってあげよう。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第28信より)

理由なくして、「生徒の用意ができたときに師はやって来る」と言われてきたのではない。このことは個人におけると同じく、集団の規模においても真実である。今日、生徒としての人類は、試され、試練を通過した世界の弟子としての人類は、新しい人生に、人類種族への奉仕の人生に入る用意がある。現在起こっている意識の転換によって、彼らは自分たちの分離感は幻覚であり、すべての被造物の中で総体とつながっていないものは何も存在しないことを悟るだろう。この発達しはじめた認識と変化を受け入れる用意が、大教師と教師たち(覚者たち)を呼び招いたのである──わたしたちは教師である。(『覚者は語る 1』─新しい光、新しい理解─より)

であるから、未来への前進を、そしてあらゆる国々の民の間の正しい関係の確立を阻むことのできるものは何もない。そうして、人間を彼らの予め運命づけられた完成への道へ復帰させるための一つの計画が展開するだろう──大胆でしかも単純、複雑でしかも明確、古来のものでしかも輝かしく現代的である。このまったく同じ道をたどってきた者たちの多くが今あなた方の中にあり、法の許す限界まで援助し、そして導く用意が整っている。わたしたちはあなた方の問題や恐怖をよく知っており、慰め、鼓舞することを求める。人々がわたしたちを見るとき、人間のあらゆる苦悩や痛み、屈辱や歓びをも知り、しかも途上にあるこれらの繰り返し現れる障害物を乗り越えるのに成功してきた者たちを見るだろう。彼らは人間が同等の達成を成すことを保証する者たちである。(『覚者は語る 1』─世紀の終わり─より)

弟子道とは、ディサイプル(ハイアラキーの弟子)としての生き方に専心することを意味するのであり、それは平均的な人間の生き方と明確に異なります。弟子は世界の中に生きており、世界の一部であり、世界と完全に同一認し、そして世界に仕える者でありますが、しかし不思議にも彼は世界から隔離されています。日常の生活の大渦巻きの真直中にあって隔離されているという特異な位置におります。しかも弟子は、世の中の苦悩や苦痛を他の人々よりも一層強く感じます。誰もが世界の苦難や痛み──何百万人もの飢えた人々や、貧困や、地震や、人類を襲うひどい病気など──を見ることができます。誰もがそれに心を動かされます。しかし弟子は、非常にしばしば他の人々よりもずっと明確にそれを見るのです。そしてその苦難に対してより敏感です。なぜなら、弟子は自分が肉体をもって転生している魂であることを認識しており、世に奉仕し苦悩を緩和する決意を持つので、大多数の人間よりも一層強くそれを感じます。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

弟子は、何にも増して、勇気と着実性と忍耐と「そこに留まる」ことのできる能力を持たなければなりません。そして私たちの裡にある最高のものを引き出すために自分の前に置かれた困難から逃避してはいけません。人生において様々な困難に出会うのは、私たちがそれらを克服していくときに進歩があるように魂が整えるからです。進化の旅路において前進へのステップを踏むことになるからです。弟子はまた謙虚さと飾り気のなさが必要です。そして何にも増して、低位の特性を高位の特性のために放棄する能力を必要とします。(ベンジャミン・クレーム『協力の術』)

わたしの使命は、あなたがたに神への道を示し、本源への単純なる道を示すことである。多くの者にとっては、その道は終わることのない困難に満ちたものに思えることを、わたしは知っている。まことに、我が友よ、そうではないのである。その道に入り進むにつれて、わたしたち自身がそれを規定するのである。わたしたちが道であるとき、道はわたしたちの前に、法に基づいて開かれていく。非常に単純なのが神への道である。非常に単純なのがその上のステップである。そしてその聖なる道には多くの手伝人や案内人が居る。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第126信より)

三つの非常に重要な原則が弟子の進化を支配する。それは不動性(ぐらつくことなく、決して後戻りすることなく、大計画に、そして弟子としての誓願に完全に不動の姿勢を保つこと)と奉仕と自己犠牲である。これらが支配的原理である。もちろんこれらは関連しあっている。時々思い出したように奉仕することはできない。……弟子は少しでも前進するためには不動性を示さなければならない。もしそれをしなければ、弟子にはなれない。単に奉仕することを欲するだけではなく、実際に奉仕しなければならない。そうでなければ何の進歩もできない。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命  第1巻』)

ディサイプルには二重の責任があります。彼らは普通の人間としての責任を持つほかに、さらに余分の責任があります。なぜなら彼らは、真理のある側面を知っているからです。彼らは世界に存在する状況を変えるために何かをすることを自分自身に課しているのであり、そして大計画と共により賢明に働けるように自分自身の特性を変えることを決意しているのです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

自分がディサイプルであることを知るとき、弟子道の必要条件を自分自身の中に意識的に積み上げることができるなら、どれだけ余計にできるでしょうか。平均的なディサイプルの生活の中に欠けるものは使命感です。ディサイプル(ハイアラキーの弟子)としての天職という意識です。ある意味で弟子道というのは天職です。あなたはそれに召されたのです。神に召されたのではなくて、あなた自身の魂にです。あなた自身の魂があなたをディサイプルにするのです。あなたが自分の魂との接触をつけるや否や、あなたはディサイプルなのです。そして魂があなたを先へと押しやるのです。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

人間一人ひとりが燈台であり、その灯を同胞のために遠くまで照らすのである。あなたのランプの灯を明るくともし、輝かし、道を示しなさい。一人ひとり、すべてが必要である。この世界を救済し、復旧するためのこの偉大な計画に参加するのに、小さすぎる者も、若すぎる者もいない。これをなす決意をしなさい、そしてわたしの援助があることを確信しなさい。如何にして始めるか、あなた自身を、あなたのすべてを、世のために、あらゆる所にいるあなたの兄弟姉妹たちのために、捧げることから始めなさい。一日たりとも真の奉仕の行為をなさずに過ごすことのないようにしなさい。そしてわたしの援助があなたに与えられることを確信しなさい。奉仕の道こそ、真なる人としての唯一の道である、なぜなら、この道は神につながる道であるから。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第13信より)

賢明なリズムを培いなさい。それが奉仕の自然な拡大を可能にするだろう。時々思い出したように奉仕をすることを慎みなさい。なぜならそのようなやり方では、勢いはみな失われてしまう。あなたは大計画に奉仕するためにここに存在するのだということを覚えておきなさい。あなたは気づかないだけであって、それがあなたの魂の願いである。あなたが自分の魂との接触をつけていくにつれて、経験の客観化が起こりはじめる。魂は好みも欲望も持たない。その目的と一致調和するものとだけ交わる。その目的とは、進化の大計画に最大限に仕えることである。(『覚者は語る 1』─奉仕への召集─より)

どれを最優先すべきかを認識し、あるいはいずれも重要なことの中から、さらにどちらかを選ばなければなりません。人類の真の奉仕者は(すなわち単に奉仕したいと願うだけでなく、実際に奉仕する者は)、意識しようがしまいが、ハイアラキーの弟子たちであり、そして弟子は自分自身とか家族とか友達に属する存在ではなく世界に属するということを覚えておくことは役に立つでしょう。しかしながら、真の弟子は物事の釣り合いの感覚を持ち、強い義務感と多くの責任を受け入れる能力を持つでしょう。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第1巻』)

山の麓にいると、我が兄弟たちよ、登りは実に険しいように見える。しかし最初のステップを踏み出すと、前進は速く、頂上近くに至ると、あなたは羽の生えた足を持つようになる、そしてその高所から神の栄光を見る。必ずそうなることを、我が友よ兄弟よ、わたし、マイトレーヤは約束する。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第89信より)

前方に横たわる仕事は明確である。魂の窓を開き、魂の光があなた方の生活を輝かせるようにしなさい。覚醒した直観を通して、魂の知識と目的が表明されるようにしなさい。慈悲の意味を知り、その愛を広範囲に広めなさい。魂の叡知ですべてのイリュージョン(錯覚)を消散して、兄弟同胞のために光となりなさい。これが光の道を歩む者すべての務めである。(『覚者は語る 1』─理性と直観─より)

ディサイプル(ハイアラキーの弟子)が、あるいはディサイプルになる志向を持つ者がまず最初に認めなければならないことは、自分は普通の人間であるが誓いを立てた者であり、自分自身の進化の状況を自分自身の手のうちに握った者であるということです。ディサイプルは魂と共に働き、その目的を遂行することを学んでいます。その魂の目的とは、他にどのような目的があろうと、まず「犠牲の法」によって導かれており、ディサイプル自身が直観的に知り得る範囲内で進化の大計画と共に働くことであり、そしてそれを自分の人生の中で実践していくことであります。彼の意識の中では大計画のほんの基本的なことしか実感を伴わないかもしれないが、それらの側面が実感される限り、それを自分の人生の中で実践していく甲斐があるのです。しかし実際にそれを実行することは非常に稀であります。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第2巻』)

瞑想は魂との接触への王道であるが、いったんこれが達成されたら、真の志向者が弟子道へと進む道は奉仕の生活をも共に受け入れることである。内的焦点と外的焦点との均衡が保たれなければならない、そして最も低い弟子からキリスト御自身、そしてさらにその上位のすべての真なる神の子たちを招く無限の道、奉仕の道の上の歩みが始まるのである。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第1巻』)

帰還の道は、今あるがままのこと(WHAT IS)についての意識、そしてそうあるかもしれないところのこと(WHAT MIGHT BE)についての意識が、進化しつつある個人としての探求者に知られるようになっていく道であります。 言い換えれば、あなたが探求するにつれて、志向するにつれて、自分の前に、ジュワル・クール覚者の言葉によれば「蜘蛛が自分自身の存在の裡から絹のような糸を創る」ように、それと全く同じように帰還の道を、まだ敷かれていない道を創っていくのです。それは全体に対する己の関係を構成するところのものについての認識の増大です。それによって私たちが自分たちと全体との、大宇宙との連結性についての認識と経験をますます深めていく手段であります。(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命 第3巻』)

神への道は非常に単純であることを告げるために再びやってきた。わたしの道が、愛の道が、最短コースである。還りの径は喜びの径である。この喜びを知り、神に還りなさい。(『いのちの水を運ぶ者』メッセージ第139信より)

分かち合いの経済

ダルハ・ブティックによるロック・クラリ氏へのインタビュー

経済学者、教育者、作家、ブロガーのスロベニア人ロック・クラリ氏は、シリウス・カムニック中等学校特殊学級で働いている。彼は協力の原則と物の公正な分かち合いの原則に基づいた代替的な経済モデルを開発し促進している。彼はスロベニアで何冊かの著作があり、協力と物の相互分かち合いに基づく新しい経済的手法について世論を喚起している。ロック・クラリ氏はダルハ・ブティックによるシェア・インターナショナル誌のインタビューを受けた。

シェア・インターナショナル(以下、SI):「経済」という言葉はどういう意味ですか。経済とは本当に生産、資本の増大、資源の搾取にのみ関わるものですか。
ロック・クラリ:「経済」という言葉はしばしば恐ろしい言葉に感じられます。経済とは経済の専門家にとっての問題のように思われます。彼らの言葉はしばしば理解不可能で私たちには専門的すぎるので、私たちが自分でする代わりに経済的なことは彼らに考えて実行してもらえばいいと考えてしまいます。しかし、そうであるべきではありません。経済は本質的に単純なものであり、私たち全員に関わるものです。実際には、私たちは皆、経済学者なのです。経済という言葉は古代ギリシャ語のオイコス(家、家族、家族の所有物、品物)とノモス(管理する、支配する、法)の複合語です。経済の元々の意味は、「家庭環境(家庭、家計)の賢明な管理」と「家族全体への日用品のための関連する品物(建物、土地、生活用品)」という意味です。後に、その定義はより広い共同体──家族全体、全市民の家としての国家──に拡張されました。今日では、私たちは最も広い意味で経済を理解しなければなりません。例えば、地球環境の賢明な管理、私たちの共通の家としての地球、そしてその家族全体の──人類の──日用品の賢明な管理という意味です。個人と家族の一員として、また地域社会のメンバーとして、あるいは国家や地球の一員として、私たちは経済学者であり、共通の環境と物をいかに管理するかを学び、皆が豊かに生きると同時に未来の世代のために地球を保全することができるようにならなければなりません。これは経済の本質です。

SI:今日の経済はどのようなものですか。
クラリ:今日の経済の特徴は貪欲、利己主義、争いであり、経済学者は競争という心地よい呼び方をしています。競争と利己主義はスポーツにおいて受け入れ可能であるとしても、経済の分野ではそれらは完全に破壊的です。なぜなら、それらはある人々に極端な富をもたらしますが、大半の人々に貧困と苦痛と不必要な死をもたらすからです。人類すべてに属する物を求めて競争し、多数の犠牲の下にそれを所有することは、現代社会の最大の諸問題──飢饉と貧困、軍事や社会紛争、気候変動と環境汚染、経済危機、移民など──の根本原因です。

SI:どうやってすべての人々に役立つための将来の経済を形成すべきでしょうか。
クラリ:経済がすべての人々に役立つために、それは協力と分かち合いの原則に基づいているべきです。実際には、そのような経済制度は分かち合いの経済と呼ばれます。この制度の本質は、すべての人が基本的必要を満たすことのできる物にアクセスすることができるように物を分かち合うことです。基本的必要とは、世界人権宣言において基本的人権として明記されているものです。それらは、食料、水、衣服、住居、医療、教育です。分かち合いの経済は地方で、国家で、グローバルなレベルで組織し実行可能なものであり、家族や家計の中で常に存在してきたものです。

SI:グローバルなレベルで分かち合いの経済のための計画は存在するのですか。
クラリ:最も期待の持てるアイディアの一つは、グローバルな規模で国家間の物資の分かち合いを調整する新しい機関を設立することです。最良の選択肢は国連機関の活動の中に設けることです。国々はその主要資産の余剰と不足をその機関に報告し、特に基本的必要を満たすために必要なものについて報告します。その機関は、これらの物資の総評を行い、輸送を調整し、欠乏している地域に輸送します(今日の市場はこの機能が非常に不十分です)。私が強調したいのは、今日はすでにこれを可能にする情報コミュニケーション技術、輸送、ロジスティクスが存在するということです。物資のグローバルな分配のための機関はハブの役割を果たし、言い換えれば、食料、水、医薬品、医療品、衣服、エネルギー資源などのような主要なグローバル物資の流通と分かち合いの核心です。したがって、この機関はこれらの物資を所有せず、調整者、仲介者の役割を果たすだけです。国々自身が物資の直接輸送を提供し、インフラや学校(医師やエンジニアのため)の建設の援助をします。

SI:国家と地域のレベルでの分かち合いの経済についてはどうですか。あなた自身は分かち合いの原則を実行する具体的なプロジェクトに参加されたことはあるのですか。
クラリ:いわゆる福祉国家はある程度物資の分かち合いに基づいています(その良い例がいわゆるスカンジナビア諸国です)。共通の資金は税金や他の寄付などから充填され、多かれ少なかれ公正にすべての市民の間で分配されます。例えば公共教育、保健、社会保障、共通のインフラの形態を取ります。不幸なことに、さらに大きな程度で、商業主義の影響の下でこの原則に従う国はますます少なくなっています。ローカルなレベルでは、私たちはすでに多くの形態の分かち合いの経済を持っています。例えば、自転車、車、衣服、道具や他のアクセサリー、サービスの分かち合いなど。不幸なことに、ここにおいてもますます利潤が重要になり、相互協力、理解、共感、尊重、そしてもちろん互いの愛に基づく分かち合いの経済を破壊しています。この側面は、家族を除いては、今まで経済において知られていませんでした。しかしながら、地域社会においては、世界のほとんどすべての場所で、物資の分かち合いの様々な形態が出てきて栄えています。例えば、私が教えている学校では、長年私たちはいわゆる見本市を組織していて、そこではおもちゃ、衣服、家の調度品、スポーツ用品、書籍を交換したり寄付したりしています。すべての品物が同じ価値があり、見本市の前に一つのクーポンと交換します。余剰のクーポンを持っている人々は通常それを社会的経済的に不利な状態にある人々に、愛情、報酬、友情のしるしとして寄付します。見本市の場では、クーポンはすべての見本市の品物のための「支払いの手段」です。社会的に不利な立場にある人々は、自分たちが劣っているとか、今日のチャリティーに共通の結果である「感謝することを強いられている」とは感じません。より広いレベルにおいても、分かち合いは同じ効果を持ちます。

SI:あなたが提唱する分かち合いの経済という概念は、一般に受け入れられているものとはかなり異なっていませんか。これらのアイディアは世界の経済の流れと一致するのですか。
クラリ:最近、政治家や経済学者は循環経済について語っています。それは少なくとも分かち合いの経済の最小限の特徴を含み、それは特に物質が長い時間をかけて人々の間を循環し、「購買──使用──廃棄」という原則とは異なるという意味においてです。しかしながら、分かち合いの経済の概念とより共通するのは、普遍的ベーシック・インカム(UBI)というアイディアです。UBIでは、少なくとも最も緊急で本質的な物資とサービスの支払いに十分な月収を同じだけ全員が受け取ります。しかしながら、この場合の大きな危険は、通貨制度が市場の法則と反復する危機に従属することです。したがって、より良い「通貨」とは、誰もが基本的必要を満たすことができる主要な物資とサービスへの普遍的なアクセスであり、それは分かち合いの経済の核心でもあります。

SI:肯定的に総括するために、人々が相互の物資の分かち合いの原則を実行することに成功している実例を示していただけますか。
クラリ:歴史上、マーシャル・プランが際立っており、それはアメリカ人が、財政的物質的援助の拡大によって、第二次大戦後のヨーロッパの急速な復興を可能にしました。多くの人々が今日グローバルなマーシャル・プランを支持しています。現在、豊かな国々が余剰資源を森林伐採地域に提供しています。財政と「慈善」の援助だけでなく、基本的インフラ、学校、病院、発電所、井戸、衛生設備などの建設もあります。豊かな国々はこの種のプロジェクトにとって十分な財政的物的資源を持っています。これはグローバルな分かち合い経済にとって大きな導入です。この比較的短い期間(おそらく数年間)の経験に基づき、人類はグローバルな日用品の分かち合い(例えば、私が前に述べたようにグローバル物資の分配の枠内において)を定式化することができ、それが永続的に飢餓と貧困を除去し、結果的に、今日の人類を束縛している相互の国際的な不信感、恐怖、不安を除去するでしょう。ですから、私たちは真に繁栄と相互尊重と平和の新しい時代に入っていくでしょう。そして遂に、これと共に、力強い愛のエネルギーそのものが、地上で初めて顕現し始めるでしょう。ロック・クラリ氏の著書『Ekonomija delitve: uresni itev 25. lena v 21. Stoletju(分かち合いの経済──21世紀における25条項の実現)』『Kako deliti dobrine(いかに物を分かち合うか)』『Pravi na delitev dobrin(物の公正な分かち合い)』『Svet za vse(皆のための世界)』

ベンジャミン・クレーム「分配と再分配にのみ携わる新しい国連の機関が設置され、それに関連する問題を取り扱うでしょう。その長官には覚者か、あるいは少なくとも第3段階のイニシエートがなるでしょう。必要とする人々に正しく食糧が分配されるようにすることが彼らの責任でしょう」(SI誌1989年12月号)マイトレーヤは、世界資源の再分配を通して分かち合いの原則を受け入れることを呼びかけるだろう。食糧、原料資源、エネルギー、テクノロジーの知識の大部分は今日先進国によって占有され、(浪費され)ている。われわれが分かち合いの原則を受け入れる時(各国の政府は世界世論によってそれを強いられるだろう)、各国は必要分以外の余剰を世界への信託として移管することを要請されるだろう。各国はその資源と必要の明細目録を作ることを要請される。これらの統計はコンピューターに入れられ、この目的のために設置される国際連合の機関が、この情報に基づいて世界資源の合理的な再分配の計画を作る。このようにして先進国と後進国との間により良いバランスが達成される。再分配のプログラムは、実施に2~3年かかると見積もられている。この企画のための計画と青写真は高度のイニシエートたち──相当な実績を持つ経済学者、金融財界人、産業人──によって、すでにかなり以前に作られており、その実施を求める人類の要請を待つのみである。高度に複雑な物々交換の形態が今日の経済システムに取って代わるだろう。(SI誌1986年1/2月号)

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、手紙の保留分が非常に多数あり、それらはベンジャミン・クレームの師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたが、いまだ掲載されていない。掲載された他の手紙は新しいものである。覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、その体験が希望、鼓舞、慰めを提供することで「それ自体が語る」ということがあり得る。これらの手紙は読者の考慮のために提供されている。

ちぐはぐな人

編集長殿
2003年7月19日に、私は駅へ行ってシュテルン誌を買いました。手に雑誌を持って家に帰る途中、若い男性に出会いました。彼は着古して擦り切れた服を着て、バックパックの他にとても大きな古新聞の束を新聞紙1枚で包んだものを持っていて、束の端が見えていました。彼とすれ違った時、彼は歩道に置いたバックパックの上にただ座っているだけでした。彼のセーターの大きな穴から肩が見えていました。私が物乞いにお金を渡すことは、めったにありません。彼はお金を求めてきませんでしたが、小銭が少しだけ残っていたので、2ユーロを取り出して彼に差し出しました。彼はとても優しく微笑んで「いいえ、結構です」と言いました。少し気恥ずかしくなり、私はお金を戻してゆっくりと立ち去りました。後になって考えると、彼には『マイトレーヤの手』を渡せばよかったと思いました。私にとって最も驚かされたことは、ハンサムな若い顔に優しい笑顔を浮かべながら、ボロボロの外見でお金を断ったことで、それが私の頭の中ではしっくりしないのです。彼は特別な方でしたか。
メヒティルト・ヴィーンケルドイツ、ハンブルク
【ベンジャミン・クレームの師は、その『若い男性』がマイトレーヤであったことを確認した】

再登場

編集長殿
2003年6月2日月曜日、知人と私はドイツのミュンスターシュヴァルツァッハにある修道院へ車で向かっていました。私たちはカッセル東サービスエリアのガソリンスタンドに立ち寄りました。午後3時30分頃ドライブを再開しようとした時、年配の女性が私たちの車に近づいてきました。その女性は簡素な服装で、それぞれの手にビニール袋を持っていました。彼女は私たちに、そこまでは誰かと一緒にやって来て、300kmドライブしてきた後で、その人からこれ以上連れていけないと言われたと言いました。それで彼女は私たちがカッセルまで彼女を連れていけるかどうか尋ねてきたのです。知人と私は一瞬ためらいましたが、断りました。私たちは後になって、すでにカッセルを通り過ぎていて、サービスエリアにいた人は誰も、Uターンしなければカッセルに行けなかったことがわかりました。その女性の頼みを断った後、彼女は1ユーロをもしかしてもらえないかと尋ねてきました。知人がいくらかお金を渡すと、その女性は喜んで、「ありがとう、マリア、これで少し食べ物が買えるわ」と言いました。彼女の悲惨な状態にもかかわらず、幸福そうで満足しているようでした。もし知人が以前にも、この同じサービスエリアで起きた、よく似た女性との同じような出会いをしていなかったなら、私がこの出来事についてそれ以上考えることはなかったでしょう。ベンジャミン・クレーム氏は、過去にこのサービスエリアで知人に近づいてきた女性が、マイトレーヤであったと確認されました。私は今そのことについて考えずにはいられず、その年配の女性が同様にマイトレーヤであり得るのではないかと考え続けています。あの時のことが忘れられないので、あなたからのお返事をいただければ幸いです。
アンネッテ・ローペルドイツ、シェーンキルヒェン
【ベンジャミン・クレームの師は、その『年配の女性』が実際にマイトレーヤであったことを確認した】

読者質問欄

Q 貪欲でもなく権力欲のない人々もいるに違いありません。しかし、彼らがそのようであるなら、おそらく社会に否定的な影響をもたらすのではないですか。

A 不運なことに、世界は今日、専らこのような指導者たちに率いられています。そうでない人は例外です。指導者たちは現在と未来の問題を過去の方法で解決しようとしています。それは過去の技術や方法です。もちろんそれは不可能です。試したとしても必ず失敗するでしょう。彼らは政治構造、関係、似た者同士のつながりを築き、世界を何年も後退させるような恐ろしい行為をして、世界を危険に陥れ、この地球の王国であり家族である人類の未来を危機にさらしています。
あまりにも長い間、世界の国々はこれらの老人たちによって導かれてきました。覚者方の一人はこのように書いています。「彼らは、自らの方向性や台詞に確信のないまま、時代遅れの俳優のように人生の舞台をもったいぶって歩いている」。彼らは過去の人々であり、やがて彼らの属している過去へと後退するでしょう。しかし、世界は新しい時代、新しい宇宙の周期に前進しており、そこではアクエリアスのエネルギーは人類を共に融合させ、市場と権力に向けた破壊的な競争から救い出し、地球全体の善のために働かせるでしょう。

Q もちろん彼らの政策もまた、地球を守ることについての私たちの考え方に非常に影響するのではないですか。

A この惑星は死につつあります。この惑星には医療が必要です。そしてこの惑星を救うための時間はあまり残されていません。地球温暖化のようなことは存在しないと信じている政府があります。他の誰もが、通常なら最も寒い時期に流氷が溶けているのを見ています。海洋や地球の生態系に途方もない変化が起こっています。
私たちにとって幸運なことに、私たちは独りではありません。独りであったこともありません。地球上の大半の人々は、この惑星の霊的ハイアラキー、地球の最も進化した存在の一団を知りません。彼らは欠点がなく、私たちに奉仕することだけを唯一の目的とする方々です。彼らは地球を経験のための場としては終了し、奉仕の場としてのみ見ています。彼らはここにいる必要はないのですが、自らを犠牲にしてここにいて、私たちの進化を見守り、あらゆる物事から私たちを守り、私たちがその存在すら知らないものから守っています。あらゆる方向から彼らは人類を悪から守っており、それは私たちには対処できないものです。

2019年7月号目次

 

覚者より
上昇の道
ベンジャミン・クレーム筆記

覚者より
ばくち的ジェスチャー
ベンジャミン・クレーム筆記

視点
抗議行動が人々に変化の成功をより楽観視させている
ジュリア・コンレー

民衆民主主義の成長
グラハム・ピーブルズ

S.O.P. (Save Our Planet) ――われわれの惑星を救え!
インターナショナル・グリーン・ニューディール政策
すべての人々のためのエネルギー/気候崩壊は健康への深刻な脅威となっている/最新の研究が海面上昇の悪化を警告する

意識に関するジョージ・アダムスキーのごく初期の教えを科学が確認する
ゲラード・アートセン

世界情勢
ニュージーランドの「幸福予算」
大富豪がホームレスのカップルを住まわせるために招待する/人間の臓器の3Dプリンティ ングにおける大きな進展/植物状態だった女性が、27年後に話し始める

時代の徴
世界中にあふれる徴
白檀の奇跡/もう一つのハート形の葉/レバノンの奇跡

賢者の言葉
リーダーシップに関してダライ・ラマが語る
賢者の言葉――フランシスコ教皇

ゴールドマン環境賞
「グリーン・ノーベル賞」が草の根環境活動家たちに与えられる

結論は――資金を標的にせよ
リヴェラ・サン

民衆の声
新政府に対するチェコの抗議デモ
香港で天安門広場の大虐殺を追悼する

編集長への手紙
目は知っている! 他

読者質問欄
回答 ベンジャミン・クレーム

上昇の道

ベンジャミン・クレームの師である覚者は、シェア・インターナショナル誌の創刊以来、毎月記事を提供してくださった。それは、書かれた時のみならず、世界の状況に応じて適切と思われるときにはいつでも掲載してよいようにである。実際これらの記事の多くは、それらが最初に掲載された時よりも今の方がより関連性があるように思われる。以下の最初の記事は、2014年2月に最初に掲載されたが、ますます多くの人々が神性の新しい相に気づきつつあり、その結果、他者とのより調和した関係を持つようになってきている。一方、「ばくち的ジェスチャー」の方は、それとは対照的に分裂した世界を描写しており、紛争を解決するために常識を持つことを訴えている。そのメッセージは今、より時機を得て必要なものに思われるので再掲載する。(これが最初に掲載さたれのは2014年5月である)

上昇の道

──覚者より
ベンジャミン・クレーム筆記

一人ひとりの人間の裡に神が宿る──いまだ可能性としてではあるが、それは永久不変である。われわれが人生と呼ぶ体験を通しながら旅路を進み、ついに、あの「神」との一体に向かう一歩であったことを知り、「神」の事実を認識し、それは「超魂(the Soul)」であり、われわれの真我( higher Self )であることを認識する。
今までは、「超魂」についてのわれわれの知識は宗教の関連からきていた。そのため、「超魂」は人間から遠い存在であり、認識され、遠くから崇拝されるべき何かであるという印象を残した。しかしながら、人が進化するにつれて、「超魂」は自分自身であることを、自分の、より高位でより純粋な部分であるが、にもかかわらず、自分自身であることを理解するようになる。かようにして、人は進化し、自分の真の本質と目的についての知識を深めていく。
今日、非常に多くの人間がそのような道程を歩むことについて、意識的に認識している。彼らにとって人生の意味は深まり、より優れた知識と体験を探究する。かくして、やがて彼らは瞑想に向かい、その実践を通して、より大きな発見が彼らのものとなる。一歩一歩、彼らは自分たちが「超魂」であることを確信し、それは何か遠く離れたアイディアではなく、まさに彼ら自身であることを知る。徐々に、彼らの人生のテンポ(速度)は変化し、より深い意味と目的が彼らの行うすべてを強化する。かようにして、人間は超魂の神性と知恵をますます反映させながら、完全への道程を前進する。
すべての者がそれぞれのやり方でそのような旅路を歩む──ある者は素早く、熱心に、ある者はゆっくりと、その道について不確かな思いで歩む。しかし、やがて、すべてがその旅の進歩を測る様々な門をくぐるのである。今日、この旅路は、そのような道が存在することを知らないが、にもかかわらず彼らの「魂」の呼びかけに応える何百万の人々によって辿られており、門をくぐる。彼らは、今のこの時の必要を感知し、それぞれの必要を満たすことを求め、そのようにして、彼らの役割を果たす。
知ろうが知るまいが、彼らは彼らの魂を通してマイトレーヤからの呼びかけに応えて、乱闘の中に入り、彼らの熱意と勇気でこの世界を満たす。彼らは努力が無駄ではなかったことを発見するだろう。

意識に関するジョージ・アダムスキーのごく初期の教えを科学が確認する

ゲラード・アートセン

1919年に米国陸軍を除隊したあと、ジョージ・アダムスキーは米国各地で様々な職業の肉体労働者として働いた。その後、宇宙の法則を教える自称「さすらいの教師」として、カリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナを旅して回るようになった。この宇宙の法則については、彼自身が1904年頃から1909年までの5年間、チベットの知恵の覚者方と共に学んでいた。1928年頃、アダムスキーはロサンゼルス地域に落ち着いて、そこで「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」を設立し、講演や非公式の話し合い、自費出版した小冊子やブックレットを通して、秘教の知識を求める人々に教えた。

このうち、『見えない海(The Invisible Ocean)』(1932年)と題した最初の本の中で、アダムスキーは大気圧の例えを用いながら、宇宙の見えない海を地球の物質的な大洋にたとえ、こう述べている。「海底と海表面の間には異なった波動を持つ多くの層があり、様々な生き物がそれぞれの層に生息していることが現在では分かっています」。このことが示唆しているのは、「海の生き物たちが生きている何百万もの異なった意識状態があるに違いない」ということである。唯一の違いは波動にある、と彼は述べている。「より繊細な波動は、圧力があまりかからないため、より明るくより優れています。底辺では、いろいろな物が粗雑で重くなります。圧力が強いからです」
システム科学は、単純なものから複雑なものまで、様々なシステムの性質を研究する学際的な分野であり、量子物理学と密接に関連している。ハンガリーの哲学者でありシステム科学者であるアーヴィン・ラズロ氏は最近、『宇宙の知性(The Intelligence of the Cosmos)』(2017年)と『実在とは何か(What is Reality?)』(2016年)という本の中で、非常に似通った言葉で自らの洞察を提示した。「私たちが現在知っている宇宙は、受動的な空間の中で動き、無頓着に時間の中を流れる物質の領域ではなく、様々なコヒーレント(まとまりのある)波動の海である」。こうした最先端の科学的洞察に照らしてこそ、『見えない海』の中にあるアダムスキーのごく初期の教え──ならびに後年の論文や説明──の真の重要性が明らかになる。
2017年の公共放送サービスのドキュメンタリーで「現代の天才」と呼ばれたラズロ博士は、「時空間」、つまりリアリティ(実在、真実)の濃密物質の領域が、宇宙のリアリティのすべてだということはあり得ないことを、今や科学が認めようとしていることを明らかにしている。「物理学者たちは最近まで、複雑な界層[時空間を超えた次元]を、時間の経過に伴う量子システムの動きを予測するのに役立つ単なる数学的手段と見なしてきたが、物質的リアリティの一つの要素と見なすことはなかった。この見方が見直されている。複雑な界層は、時空間を超えた物質世界の次元もしくは領域であるようだ」
ここで、『シークレット・ドクトリン』(1888年)という重要な作品で知恵の教えを現代世界に再紹介したH・P・ブラヴァツキーが、次のように語ったことに注目すると興味深い。「オカルティズムの科学のすべてが基盤とするのは、物質の幻惑的な性質と、原子の無限の分割性という教義である」。(「オカルティズム」──「隠れた」を意味する「オカルト」から派生した──はここで、進化過程の背後にあるエネルギーについての科学を意味することに着目すると興味深い)

体外離脱の体験

デスモンド・レスリーは、『空飛ぶ円盤は着陸した(Flying Saucers Have Landed)』(1970年、改訂増補版)に寄せたジョージ・アダムスキーに関するコメンタリーの中で、アダムスキーの体験の物質的なリアリティについての議論に触れ、こうした体験の一部は「肉体の外で行われた霊的な体験の印」を持っていたと注釈している。知恵の教えを学ぶ者として、彼は次のように理解している。そうした説明は「次のことのゆえに、なおさら真実である。つまり、真我とは、肉体ではなく、意識であるということである」。意識の性質についての科学的探求は、ようやく追いつこうとし始めたところである。神経科学者のスティーブン・シュワルツ氏は次のように述べてさえいる。「意識が原因であり、物質的なリアリティはそれが顕現したものである」。おそらくそのために、レスリーはこう書いている。アダムスキーの「使命は、訪問者たちの客観的な事実だけを確立しようとすることであった。それ自体、十分に難しい仕事であった。わずかでも秘教的なものによって素人を混乱させてはいけなかったからである」。それでも、アダムスキーは確かにレスリーに対して次のように請け合った。「私たちの誰も現在の肉体の形態や状態のまま、太陽系内の他の惑星に連れていかれ、その住民たちの故郷の世界を見ることは許されませんでした」

拡大する意識

私が以前、『転換期にある惑星』(アルテ、2016年)で例証したように、ジョージ・アダムスキーが多くの他のコンタクティーたちと同様に告げられたのは、人類が歴史上のこの時点において新しい宇宙周期へと移行するのを助けるためにここにいる訪問者たちは、私たちの道徳的、社会的進歩がテクノロジーの進歩と釣り合うようになるまで彼らのテクノロジーをもっと多く分かち合うことはできないということである。つまり、人類にとっての唯一の安全な前進の道は、同胞の人間を自分自身と見なすという、より高度な倫理観に従って生きることを通して、拡大する意識を顕現させることだということである。アーヴィン・ラズロ氏は『宇宙の知性』の中で、システム科学から生まれる新しいパラダイム(枠組み)はこの拡大する意識という概念を支持するということを明確にしている。「進化した意識形態の顕著な特徴は、倫理的で、洞察力があり、霊的である人間の中で生まれる物の見方である」
『見えない海』で提示された例えの中で、アダムスキーはこう述べている。もし私たちが「[私たちの]進化において徐々に引き上げられる」とすれば、私たち一人ひとりが、意識の中にある、低位性質と高位我との間の「境界線を壊して」しまわなければならない、と。そうすれば、私たちを他の人々や彼らの必要から分け隔てている境界線を取り除くことになる。同じように、最新の科学的発見により、ラズロ博士は次のように結論づけるに至った。「自然界のシステムの進化と持続は、競争よりもむしろ協力の中に根づいている」
意識の進化に関して、アダムスキーはこう書いている。「海底で泳ぐ魚は、てっぺんにあるものを理解することができない。それはより高度な意識を得ようと努めているが、もっと高く浮上することができないので、表面の意識はまだ知らない。何がその波動を受け止めるにせよ、それはその特定の層で暮らしている」。私たちはここで、意識の進化の過程における自分自身の段階が、リアリティについての感覚にいかに影響を与えているかを理解する。知覚と理解の領域に落ちてくるものは知覚することができる。それより上にあるもの、より高い波動や周波数の領域に存在するものは必然的に理解が不可能に見えたり恐ろしく見えたりする。そのため、適切に理解されなければ、人々は嘲笑したり反対したりし、歪曲することによって引きずり降ろそうとする。これはジョージ・アダムスキーへの容赦ない攻撃に見られるだけでなく、現在の交通や通信、情報技術の結果として村の大きさまで縮小した世界における急速な変化への人々の反応にも見られる。一方、多くの人々は、グローバル社会や人類をどのように見るかについて同じ変化を成し遂げようとしていまだに心理的に苦闘している。
人間の進化について言えば、すべての男女や子供の基本的必要が同一のものであるということが分からないとしたら、「他者」を包み込むほどに人間性を拡大させる責任が私たちにある。そうするためには、現在身近に感じている意識の海の層のすぐ上の層へと思い切って入らなければならない。そして、意識的な認識と知覚において成長するにつれて、私たちはより精妙な領域に慣れ、より包容的な人生観を通して他者への寛容と敬意を培うことになる。
主流派の科学とそのより頑固な信奉者は、実証による証拠だけが生命を理解するのに役立ち得ると主張する。一方、『見えない海』の中にあるアダムスキーのごく初期の教えは、生命を理解することは私たち自身の生命の理解に関するものだということを理解するのに役立つ。私たち自身の生命についての理解は、私たちの意識の拡大とともにやってくる。したがって、アダムスキーのごく初期の教えは意識の進化そのものに関するものである。最近の本の中で宇宙を「コヒーレント波動の海」として提示したラズロ教授は、科学が今や、アダムスキーの教えが1932年に──『見えない海』として──始まった理解の地点へと到着したことを明らかにしている。

ゲラード・アートセン『見えない海(The Invisible Ocean)』から抜粋。(同書は『見えない海』の複製と、ジョージ・アダムスキーによる二つの未発表記事を収録している)BGA Publications 2019, ISBN 978-90-9031695-6

編集長への手紙

シェア・インターナショナル誌には、手紙の保留分が非常に多数あり、それらはベンジャミン・クレームの師によって、覚者方あるいは「代弁者」との本物の出会いであると確認されたが、いまだ掲載されていない。掲載された他の手紙は新しいものである。覚者が関わっていたかどうかを確認すること、もしくは示唆することもできないが、その体験が希望、鼓舞、慰めを提供することで「それ自体が語る」ということがあり得る。これらの手紙は読者の考慮のために提供されている。

目は知っている!
編集長殿
2019年3月22日にバス停にいて、数カ月間仕事をしてきた顧客の葬儀に向かうために、バスを待っていました。小雨が降る日でした。年配の男性がバス停に近づいてくるのが見えました。彼の横にはその年配の紳士の頭上に傘を差しかけている人がいました。年配の男性はやって来て私の隣に立ち、気さくに話しかけてきました。彼は周囲のあらゆるものに気づいていました。彼はドイツ系の人で、わずかに訛りがありました。きれいな身なりで金と黒い石の指輪を付けていて、見事な物のように見えました。ある時には彼が指輪にごく軽くキスしていました。彼は屈託のない人だとわかり、彼の周りの人々に感謝の念を持っていました。その年配の男性は間もなく受ける予定の目の手術のことを話しました。それが私の心に「この人は誰?」という疑問が浮かんだ瞬間でした。というのは、過去に私も目の症状のために、医療処置の必要なことがあったからでした。バスが到着するのを待っていた間、私は「もうすぐ来ますよ」と言っていました。彼が「私の妹もいつもそう言っていますよ」と言い、そう言いながら笑っていました(このことから私たちのグループが「もうすぐです」と繰り返してきたことが思い浮かびました)。その後私たちはバスに乗り、彼は通路の向かい側の母親と子供に注目して、母親が子供に本を読むのを楽しんで見ていました。彼は私にもそれを見てみるように言ってきました。彼が立ち上がってバスを降りる時、私の手を取り、「神の祝福がありますように」と言ってくれて、彼の優しさが際立っていました。1週間後、私は目から出血して網膜剥離だとわかり、外科手術が必要でした。あの男性との出会いと彼の屈託のなさを思い出すことで、回復の痛みは和らげられました。彼は私たちの周囲で進行しているすべてのことに、注目してもらいたいと思っていたようでした!
メアリーアン・スレイン
米国、サンフランシスコ

一体感
編集長殿
2019年6月5日の水曜日に、私たちはテレビで英国ポーツマスでのDデイ75周年記念式典を見ていました。数百人の退役軍人、ロイヤルファミリーや世界のリーダーたちが集い、戦って命を落とした人々を追悼し、敬意を表し、退役軍人たちの栄誉を称えたのです。手紙や日記から引用され、朗読されたものがとりわけ感動的でした。たくさんのものの中から一つの逸話が印象に残りました。ある連合軍兵士が重装備のリュックのせいで背中から水に落ちたけれども、兄が両腕で足を引っ張って助けると、皆が前進するのを励ますために、彼はできる限り素早くバグパイプを演奏し始めたというものです。私たちは、視聴者であっても全体の一部として含まれていると感じ、まるで私たち、生きている私たち皆が、一体となって、あらゆる年齢の男性も女性も、自由を守りながら亡くなった人たちも、家に残った彼らの愛する人たちも、家に帰った人たちも共に一つになったかのようでした。もしかして以前の1997年のダイアナ元妃の国葬中にあったように、マイトレーヤの祝福があったのだろうかと不思議に思うようになりました。
匿名希望

親愛なる友人たちへ
シェア・インターナショナルの皆さんへ、あなた方のなさっている助力と大変な仕事すべてに対して、お礼を申し上げたいと思います。何年にもわたり、私は書籍やポストカードを購入してきましたが、それらは非常に興味深いものです。さらにマイトレーヤやベンジャミン・クレーム氏に関する情報を、私はベストを尽くして伝えてもきました。あなた方が行っているこの偉大な仕事を続けていかれて、より多くの人々が真実を知るように祈っています。
J・ロウ夫人
英国、ノーザンプトン